江戸川パリ祭当日、私の携帯電話が鳴りました。
「出棺なので、お母さんに電話でお別れを言って……」。
外へ駆け出し、「永い間アリガトウ」と言ったつもりが嗚咽にしかならず、
ステージへ戻っても、うつ向いたまま。
シャンソン大使=J.P.メナジェが加藤ハツ館長逝去を知ったのは、
駅構内の喫茶店で私に、訃報の載った新聞記事を手にお悔やみを
言われた方の涙を見た時でした。
そして、館長が荼毘に付される、ちょうどその時刻に彼と私は、
コンサート会場でリハーサル中。演奏曲「CHEZ LAURETTE」は、
館長が大好きだったシャンソン。
それを聞きながら泣いている私を見て、彼も涙を流しながら
演奏し終えると、私を固く抱きしめてくれました。
「この曲をシュウジのママに捧げて、日本公演の全ての都市で演奏するよ」
と言い、約束通り11都市で館長を追悼して演奏。さらに、スタジオで
フランス語の弔辞と共にレコーディングまでしてくれたのです。
先日、アコーディオン奏者=M.グラスコも弔問の為に来名し、
「偲ぶ会の時も来日する」と言ってくれました。
言葉の通じない異国の人とも、心と心で語り合って来た老婦人の
人生は、国際交流の最も大切な物を示唆していると言えます。
『月刊なごや NO.384』より