多くの人たち同様、私も「館長」としか呼ばなかった母・ハツが逝きました。
最後の1ヵ月近くは、全く飲食ができなくなったにもかかわらず、
見舞客の手を痛いほど握りしめたり、かすかな声で「会えてよかった」と
言ったりして、その生命力には医師も驚くほど。
「灯そう!名古屋に文化の灯」をモットーに生き、92才、
現役最高齢の女社長として新聞記者から取材を受けた時は、
反戦・平和や、若い歌手育成について何時間も熱弁をふるっていたのに、
まさかの出来事でした。
「舞台に立つ人は、親の死に目に逢えないもの」と言っていた館長ゆえ、
危篤が私に知らされたのは名古屋巴里祭のステージ終了後。
まさに、その時刻、命を賭すかのような壮絶な歌声で客席を感動させた
瀬間千恵さんは、何かを感じておられたにちがいありません。
喪主であるにもかかわらず、私は通夜にも火葬にも立ち会えませんでしたが、
1年も前から「私が死んでも葬儀はせず、時を待って偲ぶ会をして欲しい」と言っていた
館長の言葉に従います。
日本の将来を担う若い力を育成するために生涯を捧げた、真の教育者・加藤ハツ
を誇りに思います。でも亡くなるその時まで「館長」として生きた彼女に、
本当は言いたかった……「アリガトウ、母さん」と。
『月刊なごや NO.383』より