卒業後、最初の職場「緑風壮」。
元々結核療養所であったところへ
愛知医大のDr沢井氏とそのリハビリチームを迎えて発足。
そこでケースワークの視点、心得を教えて下さった先輩、堀さん。
私の音楽活動を擁護して下さった荘長、伊藤勲さん。
(当時、議員の中でも私の活動否定と肯定と2派にわかれていました)
思いがけない楽しいこともありました。
以前、キャバレーバンドにいたと言う介護人の西谷さんと荘内で入所者の為に演奏を幾度もできたこと。
入所者の中ではドミカこと三神博子。
彼女から存在を教えてもらったグレープの「精霊流し」。
そのメロディーは今でも胸に響いています。
カーコこと服部和江は、荘内ではメディアに登場した最初の入所者としての印象。
「グラシェラ・スサーナ ファンクラブ」を作って新聞で報じられました。
何より、私の活動をエルムの誰より古くから知っていて、今でもエルムへ聴きに来てくれます。
上林さんは職業訓練で私が勧めた油絵に取り組み、第1号の作品をプレゼントをしてくれました。
ずっと我が家の客間に飾ってありました。
何かの折、山手通りの最先端ファッションの店「プチ・ローゼ」(私はそこでピアノを弾いていた)のドレスや装飾品の片隅に彼の絵を置いてもらったところ「売れました」との報告。
それをはげみに退所後、生活保護を受けつつ絵を描いて生涯を閉じました。
退所と言えば高齢男性と入所者の若い女性(たしかマヌカン、即ちモデル)が仲良くなったとの介護人からの報に私たち職員は、その女性がまもなく社会復帰可能だからと引き止めました。
ところが男性は駐車場の料金係(前職はキャバレーの店長で数字には強い)の仕事を探し、女性は退所後に結婚。
反対していた我々職員も招かれ、お祝いの言葉を。
何より仲人となった荘長の心の中は・・・。
次の職場、区の社会福祉係では
私が民間人なら表彰状ものだと言われたことが。
詳細は省略するが、銃刀法違反で全国指名手配の親分逮捕に関すること。
次は、児童相談所での事件に関して
所長からメディアの取材に応じないよう言われた時のこと。
なぜか1社だけ取材姿勢と視点のちがう記者がいて、つい対応。
それが川本公子記者。
臼田信行氏の奥様としてパリ公演の折にも、お世話になりました。
中日新聞とのかかわりは古く、加藤巳一郎氏のお子さんを母が教えた時に遡ります。
ある時、パリ公演から帰国した際のこと。
エルムに近い道路がすべて封鎖されていたので
「タダ事じゃない」と各社の電話。
偶然、当日夜勤だった臼田さんに連絡
「スグ行きます」とのこと。
暴走族の一斉取締役で、翌日朝刊の中日が特ダネ。
「こんな深夜でも朝刊に間に合う」と驚きました。
他にも橋本奈央子早逝や、「加藤ハツ館長を偲ぶ会」等、中日新聞は幾つもの特ダネを書いていますが、日頃からニュースソースとしての私達の活動に注視して下さっているからに他なりません。
役所時代、最も印象深かったのは青い鳥学園の夏目先生が私の送別会を個人的にして下さった時。
「加藤君に我が園で働いてもらいたい」とおっしゃたのです。
迷いに迷ったのですが、せっかく役所との縁が切れたので、音楽活動に力を注ぎたいからと丁重にお断りを。
すると後にエルムで職員の方々を伴ってライブを聴きに来て下さいました。
私の人生の分岐点でした。
「二足のワラジは、はけなかったんですか?」
と言う人には「そうです」と答えています。
思い出は、尽きることがないもんですね