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日本のシャルル・アズナヴール=菅原洋一

フランス・シャンソン芸術協会発行シャンソン・ディプロム

(免許状)最高位「グローリア」を授与された菅原洋一。

 

過去、瀬間千恵だけに与えられていたこのディプロムは、

カトリーヌ・アトラニ同協会創設会長が瀬間千恵の歌唱を聴いて

「日本にも、これほどまでに素晴らしい歌手がいた!」

と驚いたことによるというエピソードがある。

 

今回、菅原洋一に対しては、アリアンス・フランコフォン

会長・J.R.ギオン氏が、日仏シャンソン協会20周年

ゲストとして菅原洋一が歌った折の感動を、

カトリーヌ・アトラニに伝え、実現した授章。

 

ギオン氏いわく「今まで聴いたどの歌手の歌より、心に響く“愛の讃歌”だった」……

アリアンス・フランコフォン会報には「日本のシャルル・アズナヴール=菅原洋一」と

キャプション入りで紹介されました。

 

年を重ねて、一層素晴らしい歌声となっている菅原洋一は、

すべての歌手のお手本だと思います。


シャンソン異聞 / 櫻葉涼太

『愛と人生の歌=シャンソン 2019.7号より』

<「モンデュー」の正しい歌い方>

日仏シャンソン協会日本支局長・加藤修滋が、

シャルル・デュモンをオデオン近くのマンションに訪ねた折のこと。

エディット・ピアフが歌って大ヒットした「モンデュー」のラスト・ワードを、

で歌うか P で歌うかの話となりました。

ピアフは「アンコール↑」と、声高らかに歌い上げています。デュモンのLPでは「アンコール↓」とイントネ

ーションを変え、声をひそめて歌っているからです。これを指摘したのは、加藤修滋の母でした。

デュモンいわく「ママKATOの言う通り、神への祈りは心の中でするもの。

でも偉大なエディット・ピアフが叫んで歌うので、私も今ではfで歌う」

 

その年の12月25日、シャルル・デュモンから、日仏シャンソン協会日本支局へ録音テープが届きました。

「ママKATOが望んだとおりの歌い方で、レコーディングをしたよ。X’masプレゼントです」との添書き。

デュモンの自宅にある、年代物のプレイエルのピアノで弾き語りをして贈ってくれたテープには、

椅子のきしむ音も。

デュモンは、後日「人生最初の自宅録音。おそらく人生の最後のレコーディング」と語ったと言います。

この貴重な録音は、故・加藤ハツ館長を偲ぶ会で参加者500名全員に配布され、

日仏両国で話題となりました。

 

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<音楽で結ばれたローラン・ヴァンサンとママKATO>

日仏シャンソン協会日本支局理事長であった加藤ハツは2014年7月10日逝去。

火葬上で荼毘に付されるその時、一人息子・加藤修滋は東京でパリ祭に出演中。

携帯電話に“出棺なので最後にお母さんに電話でお別れを言って……”との連絡があり外へ駆けだしたものの、嗚咽のみ。ステージへ戻っても、うつむいたままの加藤修滋に、同行していたシャンソン大使=J.P.メナジェは肩を抱きしめて約束をしました。

「ママKATOの好きだったCHEZ LAURETTEを日本公演のすべての都市で追悼演奏するよ」

約束通り11都市でアコルディナによる美しいメロディーが多くの人々の心に響きました。

帰国後、メナジェは友人であり、CHEZ LAURETTEの作曲者であるローラン・ヴァンサンに、

この逸話を伝えました。ヴァンサンは、手書きで一晩でこの楽曲の楽譜を書き上げ、

加藤修滋へ贈ってくれたと言います。

「加藤ハツさんへのオマージュ」と印された楽譜は、シャルル・アズナヴールが「日本のシャンソンの母」と呼んだ加藤ハツへの何よりのプレゼントにちがいありません。

 

<ミスチグリ最後のステージと遺品>

1960年代にモンマルトル、モンパルナス、ピギャール等のキャバレーで

シャンソン・レアリスト(現実派女性歌手)として注目を集めた歌手・女優のミスチグリは、

2010年夫(文筆家ジルベール・ガンヌ)の死後、歌う意欲を喪失していましたが、

2014年11月日仏シャンソン協会による日仏友好コンサートがユーロペアン劇場で開催されることになった時、シャンソン大使経験者のアコーディオン奏者=ミッシェル・グラスコの推薦で、

シャルル・デュモンと共にゲスト出演が決まりました。

 

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彼女のカムバックを祝福する拍手は、メイン歌手のシャルル・デュモンに勝るとも劣らず、

ユーロペアン劇場に鳴り響きました。

それが彼女の人生最後のステージとなったのです。

そして、その翌日、ポール・レイ劇場で開かれたエルムの歌手によるコンサート会場に、

ミスチグリは出演歌手全員分のプレゼントを持って現れました。

それは綿花のドライフラワー。今もエルムに彼女の想い出と共に飾られています。 

 

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シャンソン大使 日本公演2019

第25代シャンソン大使=ミッシェル・グラスコが来日。

全国9都市で11公演というハードスケジュールの初日は「名古屋巴里祭」。

 

今回初の試みで、ホテル・ナゴヤキャッスルの特別室(ノーブル・サロン)シャンボールでの

ランチ・ショー、ティータイム・ショー、ディナー・ショーという豪華な企画。

もうすっかり顔なじみの歌手とお客様による温かい雰囲気の打ち解けたステージが4回。

岡山加代子&宮入公子、青山桂子&芹沢抄子、真路まなみ&岩城康子、堀田さちこ&桜内潤子の

コラボレーション・ステージは、ミッシェル・グラスコも慣れた感じで、リラックスしていました。

 

さらに劇団四季出身の沢木順、女優でありシャンソン歌手・夏樹陽子は、各々、全く異なった雰囲気で

ハイ・グレードなステージを構築。特に夏樹陽子のマイクの持ち方と角度はアズナヴールと同じ

(と言うことは、美輪明宏、菅原洋一とも同じ)で低域を拾いすぎないクリアな音。

ポップノイズもないという点で完璧。

昨年は秋田犬、今年はナマハゲ

秋田公演、昨年はミッシェル・グラスコは参加せずシャンソン大使=デランカントの2人

プラス2人の子ども。

公演翌日は、秋田犬とのふれあいで2人の子どもは大はしゃぎ。デランカントの2人は竿燈に挑戦。

今年、ミッシェル・グラスコは男鹿半島まで高瀬公樹さんが車で案内して下さり、巨大なハマハゲの

モニュメントで記念撮影。

 

公演そのものは、企画・構成がプロフェッショナルで音響や他の技術者も優秀だとミッシェルが大喜び。

特に高瀬公樹さんの指導を受けた歌手たちは、皆マイクの持ち方がアズナヴール風。

 

全国各地を回る中で、特に出演者が多いのが秋田の特長。

会場はパイプ・オルガンもある残響の長いクラシック・ホール。

ミッシェルのアコーディオン・ソロはピン・マイクなしの生音がとてもマッチ。

岐阜公演第1弾はサラマンカホール

秋田に続き、岐阜もパイプ・オルガンのあるサラマンカホール。

会館誌を見て、ミッシェルがビックリ。

パリ・オペラ座バレエ団の伝説のエトワール=アニエス・ルテスチュが

10月に出演するので、そのインタヴュー記事がのっていました。

公演の告知の頁にアニエスと一緒にミッシェルや青山桂子、アルビナも写真が掲載されているので、

ミッシェルは大満足。

 

プライベートなことを言えば、名古屋市民会館でお世話になった安間さんが

スタッフとして参加されていて、20年ぶりの再会に感激!

あの頃の名古屋市民会館は音楽・照明・舞台・企画各々プロフェッショナルな人材の宝庫でした。

名古屋市民会館の自主事業は、今でも語り継がれるすばらしいものであったことについて

話はつきませんでした。特に故・池田正行さんの功績については語り尽くせません。

継続は力なり=大石直美11年間の実績

昨年第1回静岡パリ祭を挙行した浜松のシャンソン歌手=大石直美。

地元・浜松では14年連続ディナー・ショーを開催。

シャンソン大使ヴェロニク・ペステルとの共演を手始めに、

11年間、継続してフランス人アーティストとの共演を重ねて来た成果は、目を見張る成長!

 

パリ・ユーロペアン劇場での日仏友好シャンソン・コンサートでは

日本代表歌手の一人として、シャルル・デュモンと共演。

フランス・シャンソン芸術協会発行のシャンソン・ディプロムを日本で8人目に取得。

その歌唱法を、フランス人好みに変えることで、フランス人アーティストの間でも

知られる存在に。

 

特に、第25代シャンソン大使=ミッシェル・グラスコとの間には、

度重なる共演を通じて結ばれた友情のサウンドを構築。

ステージの構成・演出も、無理のない流れで進行することを覚え、

プロデューサーとしても成長。

 

11年もの間、毎年フランスの実力派アーティストと共演を重ねる

幸運な日本人歌手は全国でも数少なく、

その中でも成長著しいということではNo.1と言えます。

完成!魅惑のシャンソン・カラオケ決定盤

発売後1年で完売した「シャンソン・カラオケ大全集」(11枚組)に続いて、

良く知られたシャンソンを中心に新しく2枚組のシャンソン・カラオケ誕生。

 

ミッシェル・グラスコのアコーディオンを中心にしたシンプルなサウンドの逸品。

歌の練習だけでなく、シャンソン伴奏をするミュージシャンにとっても、

またとない教材。

40曲収録(2枚組)の中には、アコーディオンだけのソロ伴奏もあって、

これがまた絶品!!

 

歌手がリサイタルで使っても十分なクオリティのもの。

 

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ご注文は下記のCDショップサイトから

【AFJCシャンソンSHOP】

http://www.chansonshop.com/?pid=143838724

 

 

 

岐阜2ヶ所目のステージは、定員オーバーの盛況

毎年、シャンソン大使の岐阜公演場所となっている岐阜じゅうろくプラザの

「ラ・ローゼ・プロヴァンス」は過去最高人数のお客様。

岐阜は、今年新しくパイプオルガンのあるクラシック・ホール「サラマンカ・ホール」で、

予想をはるかに上回る500名の入場者があったばかりなので、

当日まで集客不安がありましたが、予想を見事に裏切られて(?)幸せでした。

 

しかも(いつものように)お弁当のグレードが高いだけでなく、

厨房で作ったエビフライ、フィッシュ・ナゲット等に加えて大皿のフルーツ盛り、

果てはデザートまで…! “食リポ”に来た感じです。

本番までに時間がたっぷりあるので、お腹をおちつけてから演奏……。

 

急な大雨とカミナリで警報発令、レベル3!

それでも皆さんが駆け付けて下さいました。

めずらしくゼンハイザーのワイヤレス・マイクでクリアな音。

アコーディオンも左右両手にピンマイクが用意されていて、ミッシェルも上機嫌。


“横浜のエディット・ピアフ”?佐川由紀子さん

シャンソン大使受け入れ資格の第1位となっている、

シャンソン・ディプロムd'Orを取得されているのは全国で5人だけ。

その一人、佐川由紀子さんは、かつて「ドール」というお店で

若い歌手や演奏者育成をされていました。

今はお店をやめて、NPO法人を立ち上げ福祉活動に取り組んでおられます。

 

お店時代から若い歌手・演奏者を育て、シャンソンは勿論、

クラシック、時には邦楽まで幅広いジャンルのコラボレーションを通じての

横浜の文化振興への寄与は、並々ならぬものがあります。

若い歌手・演奏者育成に関しては、エディット・ピアフにも似た行動……との声も。

「江戸川パリ祭」 9年連続日仏文化交流

東日本大震災を機にチャリティー・コンサートを始められた星野SHOKOさん。

「江戸川パリ祭」と銘打って、都内唯一、毎年詞シャンソン大使の受け入れをされ、

日仏文化交流コンサートとして9年間の実績を持っておられます。

 

東京で最初にシャンソン大使の受け入れをされたのは石井好子さんでしたが、

それを引き継いだ形となっています。

 

コラボレーションするのはプロ歌手だけではなく、生徒さんも加わっていますが、

今年のシャンソン大使=ミッシェル・グラスコは、そうしたアマチュアの人の伴奏を好んでします。

 

アマチュアはフランス語のアマトゥールから来た言葉で、「愛好者」を意味します。

真にシャンソンを愛し、ライフ・ワークとして歌い続けている人こそ、

シャンソンの擁護者だという考えを持っているシャンソン大使です。

 

「打ち上げ」という日本語も覚えていて、それも楽しみにしていた様子。

この日は、出演歌手のタマ-ラと話が盛り上がっていました。

 

それにしても、昨年、大先輩でもある盟友を亡くし、今年、お母様を亡くされるという

哀しい1年にもかかわらず、「江戸川パリ祭」を成功させたその行動力と

プロデューサーとしての責任感に頭が下がります。

加えて、コンサート当日は「四十九日」にもかかわらず、家族にまかせてステージを

務められた歌手魂にも。

 

そう言えば5年前、私が母を亡くした時もシャンソン大使=J.P.メナジェと日本ツアー中で、

「江戸川パリ祭」のリハーサル中に母は火葬されました。

7月に亡くなった母の位牌と対面したのは1ヶ月たったコンサート・ツアー終了後だった

ことを想い出します。

八千代パリ祭でのミッシェル・グラスコ

昨年同様、八千代パリ祭は実行委員会スタッフの

スムーズな動きでとどこおりなく進行。

 

ミッシェルは「文太郎さんと親しく話せて良かった」と言っていました。

音響の田島さんとも顔なじみで安心してまかせていました。

彼が歌も歌うと知って、ミッシェルは「来年は音響テクニシャンでなく

歌手として、ご一緒したいです」と冗談を言う程、日本語が達者に

なりました。

 

毎年、満席のパリ祭を永く続けていらっしゃる茅野敦子さんの

熱意にも脱帽。

渡辺歌子さん、広瀬節子さんのお二人は、かつてエルムにも出演していた

歌手で、久し振りの再会でした。

ブログ再開

長い間、負傷&疾病でベッドの住人となっていました。

 

ようやく活動再開という時に新型コロナ騒動。

 

その余波で日々の暮らしだけでなく、人の心も潤いを失くし濁って行くのがわかります。

 

以前からメディアは殺人や事故、政治家の不正は報じても

 

善行をした人のことを報じ、衆知することが少なかったのですが、

 

今は、毎日○○人陽性、入院ばかり報じて○○人完治とか退院を報せず、

不安ばかりを人の心に植え付けています。

 

家から出られない人も多い今、せめてブログで夢を持てるシャンソン・ニュースを

お伝えしたいと思うようになり、ブログ再開。

 

心のオアシスになれることを願って・・・。

 

(そして個人レッスンも319日から再開!ピアノを弾ける喜びにひたれそうです)

日仏シャンソン協会 組織変更

1988年、日本で結成された日仏シャンソン協会は、翌1989年フランスで結成された

 Franco-Japonaise de la chanson(仏日シャンソン協会)と合併。

 略称AFJC、日本での呼称を日仏シャンソン協会として、様々な活動を展開。

 

昨年会長のJean Marc Jallon逝去に伴い、その功績を讃え会長職を彼一代限りとし、

各々に「フランス代表」(Jean-Pierre Ménager)「日本代表」(加藤修滋)が

就任して両巨頭体制とし、両国での活動の自主性と活性化を図ることとなりました。

モーリス・ファノンとシャルル・アズナヴール

シャルル・アズナヴールに「日本で最高の訳詩家」と言って私を紹介したのはモーリス・ファノン。日本では「スカーフ」の作者として知られるが、フランスでは下の写真でわかる様に、ビッグスターの一人。後日、シャルルは、モーリスのことを「優しさそのものの歌い手」と評し、「ママKATO(私の母を“日本のシャンソンの母”と呼んだ)とモーリスが意気投合したのは当然。2人とも教員出身ゆえ、子どもたちの未来の為に、平和を願った」と言及。

 

シャルルの言うモーリスの優しさは、単に性格ではなく、文化の多様性を認める幅広い音楽観につながっていると確信した出来事を思い出す。

 

1990年、パリの「ル・コネッターブル」(モーリスのライブ・ハウス)と名古屋の「カフェ・コンセール・エルム」姉妹提携調印式の為来日した彼の伴奏をした時のこと。「さっき、シュウジがまちがえて弾いた時、僕の心は一瞬乱れた。けれど、その直後、二人が手をとりあって、今までにない感動的な歌が創られたんだ。何故だか解る?二人が同じ気持ちになれたことで、新しい作品を共同制作したことになるんだよ」と言ってハグ。今まで思ったこともない、音楽の真髄が、この心の中に刻まれた瞬間を今も思い出す。

 

シャルルもまた私にとって、優しさの塊のような友人であった。

2018年、最後の公演で、私にオリーヴ・オイル1ℓ缶(彼の自宅にあるオリーヴ畑で採れたもの)を手渡し、「あなたの健康の為に。オリーヴは平和のシンボル。ママKATOのように長生きして、平和希求活動をしてね」と語ってくれたことを、生涯忘れない。

 

 

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「STAXスピーカー」実地検証の提案者・朝倉俊博

カフェ・コンセール・エルムには、人間の背丈ほどのスピーカーがあります。

その名は「STAX」でヘッドフォン・メーカーとして熱烈なファンを持つ。

しかし、スピーカーは一部のオーディオ・マニアにしか知られず、

ましてコンサートで使用されることはありませんでした。

 

エルムの中心メンバーだったタンゴ楽団「タンゴ・デ・ラ・エスペランサ」の

サウンドに魅せられ、朝日グラフに5ページの特集記事を書いた写真家・朝倉俊博は、

STAX」の社長にエルムのライブで使用する話を持ちかけました。

「エスペランサのようなサウンドやチェロ、ギター、ヴァイオリン

そしてシャンソン歌唱には最適」と・・・・・。

 

STAX」から、そのスピーカー・アンプが持ち込まれ、無期限で無償設置し、

その検証データを会社へ無償提供という約束。

(通常のSTAXスピーカーの倍の大きさなので、エルムへ搬入する時、

近所の住人が「どなたか亡くなったの?お棺が2つも・・・・・」と不安がりました。)

 

朝倉氏の言う通り、通常のスピーカーでは「パワー」、「STAXスピーカー」では

「音質」をというコンビネーションは大成功。

特にシャンソンのジャクリーヌ・ダノ、タンゴのグラシェラ・スサーナ、

フォルクローレのロス・インディオス・タクナウ等の海外アーティストは、

その微妙な中音域の延びに感動し、「自国でも・・・・・!」と。

 

その後、経営難に陥り、今は幻のスピーカーとしてエルムの音場を創るのみです。

 

故・朝倉氏は、磨赤児を撮った「幻野行」(1500部限定出版)は、

貴重な遺品として私の書棚に飾られています。

 

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シャンソン異聞~法定訳詞誕生秘話~

永田文夫氏の遺言

シャンソンをはじめ、ラテン・タンゴ等多くの外国曲や歌手を日本に紹介した、文字通り日本ポピュラー音楽界最大の貢献者・永田文夫氏が亡くなった後、業界関係者も音楽愛好者も指針を失いました。

 

単なる評論家におさまらず、執筆・訳詞そしてコンサート・プロデューサー、歌手育成‥‥あらゆる分野で大きな役割を果たされました。

 

その中で、忘れてならないのは、名古屋と大阪に開設された

「永田文夫シャンソン研究所」(大阪校はその後、閉鎖)の存在。

 

永田先生の奥様であり、歌手の前田はるみさんを顧問に、現在も活動を継続しています。

日仏シャンソン協会より前に設立され、日仏シャンソン協会設立の原動力となったこのシャンソン歌手育成組織は、フランスのアーティストの間でも認知されるようになりました。

 

永田先生が遺された貴重な文化遺産として、これからも一層活動の幅を広げて参ります。

次々とあかされるアズナヴールの人脈

シャンソンの父と言われた(その称号は、永遠のものとなるでしょう)

シャルル・アズナヴールの死後、その広い人脈が次々と知られるようになりました。

 

特にアリアンス・フランコフォン(世界108ヶ国に会員を有する「フランス語圏協会」会長のJ.R.ギオン氏のメッセージには驚かされました。

 

シャルルがこの組織の会員であったこと、そして私がこの組織の役員であることからギオン会長とシャルルとの間で、私の活動についての情報交換がなされていたことを昨年知りました。

 

日本でもファンのあるマルセル・アモンは、昨年90歳の記念コンサートを開き、新しいCD発売もしました。

 

その中で、シャルルとマルセルがデュエットをしている!

 

マルセルを発掘し、世に出したのがシャルルである点は、私の日本語詞を多く「法定訳詞」としてシャルルが認めてくれたことで、フランスのアーティストの間で私が信頼を得る契機となったことと共通。

 

そのマルセルの人生最後のお願いとしてアルゼンチン公演を終えた後、バカンスを中止して急ぎ帰国し、デュエットを録音したシャルルの「友情」を何より大切にする生き方は、多くの人脈の鍵であったと認識する次第です。

 

パトリック・ブリュエルもエレーヌ・セガラも、ジャクリーヌ・ダノもジャクリーヌ・ボワイエも・・・・・。

 

 

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フランスのアーティストから続々と新譜の贈り物

シャルル・アズナヴールが新曲を出す度に楽譜をプレゼントしてくれた上に、何曲も「法定訳詞」として登録してくれました。

 

彼が「シュウジは日本に於ける私の作品の訳詞者」と、事ある毎に仲間のアーティストに言ってくれたおかげで、私はSACEMから日本人初の功労賞メダルを授与されました。

 

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以来、シャルル・デュモン、ミッシェル・フューガン、セルジュ・ラマ、フランソワ・ベルンハイム(パトリシア・カースの作品提供者)等、多くがフランス人アーティストが楽譜を送ってくれるようになりました。

その殆どが「法定訳詞」として登録されています。

 

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昨冬、アコーディオン・サンテ(シンセサイザー内蔵アコーディオン)の名手、J.P.メナジェから「BTP FIESTA~ワンチームで築け!未来の創造者たち~」の楽譜が送られて来ました。

 

そして今、久しぶりにクロード・ポヴィヨンから楽譜到着。

 

何とJ.P.メナジェとの競作!

 

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これらの曲の楽譜は、日本のシャンソン歌手の皆さんに広く共有していただく為に「月刊プチるたん」折込という形で無料配布しています。

 

既に「BTP FIESTA~ワンチームで築け!未来の創造者たち~」は読者の方々へ郵送済。

次号には最新楽曲「懐かしの庭で」を配布予定です。

名古屋シャンソン・ヒストリー

以前からメディアに要求されていた「シャンソン都市=名古屋」の起源から今日までのレポートがようやく完成。

 

あとは、それを裏付ける資料・印刷物を探して添付するのみ・・・・・と言ってもそれが大変。

若い時代の手書きの資料からワープロ打ちのもの、パソコンの中のもの・・・・・散逸しているものも多数。

 

でも改めて書いたものを眺めてみると、実に色々な場所で多くの人がかかわっている事に驚かされます。

 

人によっては、別の意見もあるでしょうが、名古屋のシャンソンの起源と言えば、平乃たか子さん、そして南山大学の「アンサンブル・ウーテルプ」(そう考えると名古屋のタンゴは、シャンソンよりずっと歴史が深い)

 

そして、シャンソンに場所を提供した「ジロー」とカンツォーネに場所を提供した「カリーナ」・・・・・。我ながら懐かしい固有名詞が続々。

 

特に名古屋市民会館自主企画である「市民の劇場」が6年間連続開催して育てた「名古屋巴里祭」はその後、日仏シャンソン協会に受け継がれて脈々と続いている事に感謝。

 

新型コロナの影響で身動きできない今だからこそ、早急にレポート完成させたいと思っています。

 

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