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2人のシャルルと2人のジャクリーヌ

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日仏シャンソン協会並びにカフェ・コンセール・エルム30周年

に際し、2人のシャルル(シャルル・アズナヴール、シャルル・デュモン)と

2人のジャクリーヌ(ジャクリーヌ・ダノ、ジャクリーヌ・ボワイエ)から

祝賀メッセージ到着。

 

この4人とも長いおつきあいで、特にジャクリーヌ・ダノとは25年前からの友人。

今回、シャルル・アズナヴールからは(本人だけでなく)

“シャルル・アズナヴールと家族より”として、ハツ・カトウの行動を支持するとの旨が

書かれていました。

これはシャルル・デュモンの表現に、はっきりと表記されている

“ママン・ハツ・カトウが我々に言った「音楽は平和の中でしか花開かない」”

という表現と同じです。

 

SACEM 会長ジャン・クロード・プティ(今、公開中の映画「ダリダ~甘い囁き~」の

音楽担当)はじめ、アラン・シャンフォールやフランソワ・ベルンハイム(「モン・メッカ・モア」

等P.カースの楽曲作者)等、著名アーティストが祝賀メッセージを贈ってくれています。

 

30年間に培った、音楽を通じての友情物語が今、開花結実していることを実感しています。

 

   

シャルル・アズナヴール

           

 

シャルル・デュモン

 

   

ジャクリーヌ・ダノ

ジャクリーヌ・ボワイエ     

 

 

 

 

 

 

 


永田文夫氏の訳詞論評史上に残る抱腹絶倒エッセイ

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31年もの歴史を誇る「永田文夫シャンソン研究所」は、故・永田文夫氏が設立。

現在は不肖・私が第2代所長を拝命。

数えきれないレコード、テープ、CD、VTRそして書籍等の資料の中に、

後世に残る訳詞、論評を発見。ここに転載。

 

…………………………………永田文夫のシャンソン・エッセイ…………………………………………

                   シャンソンあれこれーと~『再会』

 

「あら、こんにちわ、久しぶりね。」…突然声をかけられた。見覚えのある顔。

                       だが名前が浮かばない。近頃どうも物忘れがひどくなった。

「その後お変わりなくて?」~ええ…まあ…何とか…。(こんな場合の常套句。)

「あらからどれくらいかしら?」~そう、もうずいぶんになるね。(日本語はファジーで便利。)

「あなたは元気そうね。」~そうでもないよ。君と別れてから…。(と言うのが礼儀。かりそめにも、

                                     元気だよ。君と別れたから…などと言わないこと。)

「私は変わったでしょう?」~いいや、ちっとも変わらないよ。

                  (と言いながら、変わる前の彼女をイメージ。)

「あれから旅をしたわ。」~それは良かったね。スポンサーが見つかって…。

                  (と言いながら、ちょっと妬いてる自分を発見。)

「いろんな国を見て来たの。」~僕だって行ったよ。パリやブエノスアイレスへ…。自前でね。

                    (と張り合う。)

「少しは大人になったわ。」~少しどころか…。(なり過ぎちゃった。)

「私っておしゃべりね。」~そんなにしゃべっちゃいないよ。(まだ1番の途中だからね。)

「ひきとめてごめんなさい。」(と言いながら、2番までひきとめる。)

「あんまり懐かしくて声をかけたのよ。」(懐かしくてじゃないでしょ?偶然知人に会ったなら、声をかける

                          のがあたり前。知らん顔ですれ違うのは腹に一物ある証拠。)

ここまではまずまずだが、あとの2番がまずかった。

「あの方、奥さんでしょ?」(オイオイ、知ってて声をかけたのかい?嫌な奴!)

「とても素敵な方ね。」(初対面でなぜ分かる?歯が浮くよ。)

「私に少し似ているわ。」(似ていないから結婚したのさ。)

「私をどう思うかしら?」(良く思わないことだけは確か。)

「今の私たちは、他人どうしなのね。」(今始まったことじゃない。)

「あなたの目には、もう何も残っていないわ。」(今僕の目の前に、立ちはだかっているくせに。)

「私っておしゃべりね。」(分かってるならしゃべらないで。)

「ひきとめてごめんなさい。」(あやまるのならひきとめないで。)

「あんまり懐かしくてお話したかったの。」(こっちのことも考えて。ホラ、そろそろ家内が角を出す。)

「今でもあなたを愛しているのよ。」(こんなところで言わないで。あとで彼女に、どう言い訳すりゃ

                       いいの?)

 

…というわけで、いささか後味の悪い『再会』だった。

今さら注釈するまでもないが、鉤括弧の「    」の中は、日本で最もよく歌われる『再会』のセリフ。

そして丸括弧(   )の中は、オフ・レコの部分。

 夫婦づれの男に、昔の彼女が声をかける…というような、気のきかない歌を、本当にフランス人が

書いたのだろうか?不思議に思って、原曲を聞き直す。

 『再会』という邦題でうたわれているシャンソンの原題は、「私は決してあなたを忘れることが出来ない

でしょう」(Je n'pourrai jamais t'oublier )。作詩はパトリシア・カルリ、作曲はエミール・ディミトロフ、1968年の作品である。

カルリはイタリア系、ディミトロフはブルガリア系。ふたりとも、歌手としても活躍している。これをうたって成功を収めたのはニコレッタ。その録音は『過ぎさりし恋』という平凡な題で、1971年に日本でリリースされた。

 

 まずは原詩を逐語訳してみよう。

 「あら、こんにちわ。ごきげんいかが?ねえ、今でも私のことを、覚えていらっしゃる?私はしょっちゅうあなたのことを考えるわ。でも、それはともかく、お元気?本当にあなたは、余り変わっちゃいないわね。ご存じのとおり、私はずいぶん旅をしたわ。そうよ、実際にいろんな国を見て来たの。で、あなたはどう暮らしていらっしゃるの?

私っておしゃべりね。あなたは急いでいるんでしょ。あなたの邪魔はしたくないけど、私がこんなにおしゃべりするのは、あなたに過去を思い出してほしいからなのよ。」

 「彼女が少し私に似てるって、本当?彼女も青い眼をしてるそうね。あなた、確かに今のほうが幸せなの?私はあなたを愛してるわ。今だって大好きよ。これが人生っていうものなのね。何もかも、やり直しがきかないわ。今の私たちは他人どうしなのね。あなたの目を見ればよくわかるの。私たちの恋は、もう何も残っていないということが…、あなたは遠い人ということが…。私っておしゃべりね。分かってるわ、あなたは急いでるのね。これ以上にあなたを引きとめたくないから、もうひと言だけで立ち去るわ。そのひと言は…私は決してあなたを忘れることが出来ない…。」

 なるほど、これならスジが通っている。この歌のヒロインは、愛しながら別れた彼を、偶然見かけて声をかける。察するところ、彼女の長い旅行が破局の原因ではあるまいか。歌手ならさしずめ巡業か?「ご存じのとおり」と言っているところをみると、多分彼も了解ずみだったのだろう。だが男は待ちきれずに、別の女を作ってしまった。よくある話である。さりげない会話を交わしながら、彼女は彼の近況を聞き出し、昔を思い出してもらおうとする。

…というのが1番。

 

 2番では、彼女は最も気がかりな、彼の新しい恋人のことをたずねる。その人が少しでも自分に似ている…それがせめてもの自負であり、悲しい願望でもあるのだ。そして「あなたは今のほうが幸せなの?」と、思わず本音をもらし、「今でもあなたを愛している」とくりかえす。だが、彼の目の中に、冷たい現実を見た彼女は、我に帰って恋の終わりを悟り、「決してあなたを忘れない。」という言葉を残して去ってゆく。

 さすがはエスプリゆたかなフランス女性。なかなかいい女ではないか(と思われる)。

 これに反して、当初の『再会』に登場する女性の野暮ったいこと。ニコレッタのレコードについている歌詩の対訳を、適宜そのまま借用して、うまくはめこんではあるものの、微妙なところが違ってる。例えば1番。「あれから旅をしたわ。」と、彼女が彼と別れてから旅行に出たようになっているのは、多分対訳に「ご存じのとおり」(原詩はtu sais)という訳語が抜けていた(省略されていた)ので、そう解釈したのだろう。それならば、彼への思いを断ち切るための旅だったのではあるまいか。そして彼女「私は変わったでしょう?」と自慢出来るほど、「少しは大人に」なって帰って来る。そんな彼女が「あんまり懐かしくて」声をかけ、綿々と彼をひきとめたあげく、最後に未練たらしく「今でもあなたを愛しているのよ。」と告白したのでは、元の木阿弥になってしまう。

 さらに2番が問題。なんと、彼は女連れだったという設定なのだ。知っていたなら嫌みだし、知らずに声をかけたのなら鈍感そのもの。しかも、「あの方、奥さんでしょ?」と確かめておいて、「私に少し似ているわ。」などと、図々しくのたまうのである。こんな場合は、「アラ、失礼」とか何とか言って、さっさと立ち去るのがエチケットというもの。それなのに彼女はまだしゃべりつづける。「あなたの目には、もう何も残っていないわ。」というのは、レコード添付の対訳を一行だけ引き写したために、わかりにくくなった。次の行へまたがって、「私たちの恋はもう何も残っていない」が原詩の正しい訳である。そのあとの「私っておしゃべりね。」以下のくりかえしは全くの蛇足。困惑しきった彼の顔が、目に浮かんで来るようだ。

 こうして、原詩の魅力的な女性が、一般日本語詞の『再会』では、センスの悪い馬鹿な女に豹変した。ところが不思議なことに、日本の女性はこういったタイプがお好きらしく、多くの歌手がレパートリーにしている。録音は、この訳詩を創唱したという宇野ゆう子、ほとんど語って成功を収めた金子由香利をはじめ、瀬間千恵、嵯峨美子、朝風加世、清水康子、堀公子ほか。みんな得々として、「あの方、奥さんでしょ?私に少し似ているわ。…」とやっている。いい加減に勘弁してよ…と言いたくなるが、せめてお願い。声をかけるのは、ひとりで居る時にしていただきたい。そして願わくば「久しぶりね。」の前後に、名前を名乗るか、ヒントを与えていただきたい。何しろ、近頃どうも物忘れがひどくなって…。

 

 (補足)ここでの稿を終わろうとしたら、もうひとつ、美輪明宏の訳詩があるのを発見した(手元のCDは、有光雅子の歌唱)。このヒロインは、外国旅行などしていない。どうやら彼女のほうにも新しい恋人が出来たらしく、「私ならとても幸せよ。今ではあの人が心の支えなの。」…と余裕を見せ、「それよりあなたとあの人とは、うまくいっているの?」…と、相手のことを思いやる。そしてさようならを告げたあと、「本当は今でもあなただけを愛している。」という言葉(多分独自)でしめくくる…という構成。原詩からは、かなり離れてしまったが、これならさほど矛盾はなく、少なくとも当初のよりは、いい女に違いない。

 

永田文夫

デランカント来日公演、予想を超える成功

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第24代シャンソン大使=デランカントは、事前の下馬評では

日本のガラパゴス的シャンソン・ファンには受け入れられないであろうとのこと。

 

ところが、フタをあけてみれば、予想を超える反響(正しく言えば、予想に反して大成功)。

名古屋・秋田・浜松等、共演者が比較若い都市だけでなく、

往年のファンが多い都市でも

「来年もぜひ聴きたい」という観客続出。

特に秋田はCDもDVDも完売で、買えなかった人に後日送という事態。

 

デランカントに与えられたステージ時間が短い都市では、

演奏・歌唱スタイルのバリエーションが楽しめない所もあって残念だったが、

ルックスの良さに加え、オシャレなタトゥーと演奏パフォーマンス、

何より、基本的にアコーディオンの弾き語り2人というスタイルなのに、

その抜群のリズム感と美しいコーラス・ハーモニー、

タンゴ同様、パーカッションがなくてもメロディーがリズムを創出するスタイルは、

特筆もの。

 

とにかく、

昨年、エルムで初来日公演をした折のカルチャー・ショックは、

仲間3人でグラシェラ・スサーナの初リサイタルを開催して以来

(と言うことは45年ぶり!)の掘り出しもの。

 

選択眼に間違いはなかったことに、

ある意味、誇りを持ちたいと思います。

心温まる日仏文化交流

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第24代シャンソン大使=デランカントの秋田公演翌日、

飛行機のフライトまでに空き時間があり、

主催者であタカセミュージックラボの高瀬ご夫妻が車に我々を乗せ

秋田観光をオーガナイズ。

 

県美術館の「ピーター・ラビット展」に2人の子供(ミラ、ジュル)は

大はしゃぎ(偶然、前の晩にネットで見ていたとのこと)!

そして、千秋公園ではザキトワに贈られた秋田犬(アキタケンでなく

アキタイヌ)とのふれいあ企画があり、

1歳半の秋田犬に触れることができて、子供たち2人とも大満足。

 

更に秋田名物「竿燈まつり」に使う竿燈を、

実際に手で持って操れる場所があり、ここでも大人たちより子供2人の方が上手!

 

そう言えば、前日の秋田公演の折、フィナーレでデランカントと

一緒に(予定にない行動)ステージに出て来た、ミラとジュルは

親がしゃがんで差し出したマイクに向かって「オーシャンゼリゼ」

のサビを日本語で(!)、しかもコーラス(!!)して大拍手。

会場の盛り上がりに一役買いました。

他都市以上に、日仏文化交流の華が秋田で咲いたと言います。

 

そして、CDとDVD完売の原因も子供たちに有。

サインをしようとするデランカントのヒザにのって、

2人とも親からサインペンを奪取。CDやDVDのケースやジャケットに

勝手に「お絵かき」をしてしまう事態。

ところが、購入した人たちは、それを大喜びして写真にも撮って

いました。

シャンソン大使以上の働きを各地でしたミラとジュル(共に5才)の

10年後、20年後が楽しみ。

遺稿回想1

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母亡き後、出版直前まで準備されつつ、版元の社長が病に倒れられて陽の目を見なかった遺稿があります。母を偲ぶ会の記念誌に掲載されたその一部に、幾人もの方から

「感銘を受けた」と賞讃いただいて来ました。

自分自身の難病が80%回復した今、読み返してみると、心の琴線にふれるものがたしかにあると

思えて来ました。

その一部を転載したいと思います。

 

……………………………………子どもと共に(平成二十年……………………………………

                     【我が子を保養園に送って】

 

「ママ、武豊へ行ったら、だれにだっこされて寝るの?」

一人寝の淋しさも手伝って、床に入るときまってこう聞き始める。

それを言われると、私は胸がはりさける思いで、嗚咽をぐっと噛みしめる。

「ねぇ、ママ武豊へ行ったら、もう一緒にねんね出来ないから、だっこしてねんねしてよ……」

涙を見られまいと精一杯の努力で、何を言われても机上から目を離さぬ私にせがみつづける我が子。

たまらなくなって「あなた一年生になったのよ!早く寝なさい!」

と、やっとの思いでかん高く叱って、後は涙…。

 

 思えば、加藤家の後継として祝福されて生れた筈の子ではあったが、次々と襲いかかる底知れない

恐ろしい不幸は、遂に祖母と母と子の三人暮らしに追い込んでしまった。浅学の私は生活のために

昼は勤め、続いて夜間大学へと急ぐ毎日であった。しかし病弱の祖母に乳離れしたばかりの孫を、

早朝から深夜まで任せられなくて、幼い我が子を背負って大学の門をくぐらねばならぬ事も度々であった。

 そんな幼い日の無理もこの子の体を弱くした遠い原因であったのではなかったろうか…生れてから

数年間、病気も知らずにすくすく育ったこの子が…。

 

 不幸の悪魔は、最愛の我が子までさいなもうというのであろうか…名大からの健康診断の結果を電話

で聞いた時、全身の血が一時にサッーと引いて、ぐらぐらと激しい目まいを感ぜずに居られなかった。

 私にとって、この子だけが生きる糧の総てでもあった。今日まで襲い来るあらゆる不幸も、この子故に

歯を食いしばって堪え、やっとの思いで生きのびて来た私にとって、掌中の玉を奪われた様な取り返しの

つかない言い知れぬ悲しみが、後から後からこみ上げて、親としての責任を容赦無くさいなむ。

 

 この子の長い将来の為に、プラスになる事ならば、どのような苦しみにも、悲しみにも堪えねばなるまい。

 施設の完備した保養園へ入園させてやり度い。それは我が子が幸福を得る最善唯一の道でもあり、

それが親の慈悲でもあろう。我と我が心に言い聞かせ、そう決心はしたものの祖母にとっては只一人の孫。不憫が先だって手放す気にもなれず、心の整理に苦しむ様子で、黙して語らず気まずい空気が親子の間を流れる。祖母の反対を押し切って保養園へ送り、果たしてその結果が…ここまで思い至ると、私の決意はにぶり勝になる。

 

思い切って手続きしてしまう事だ。私は目をつぶって保健所の門をくぐった。

これで母と子の別れが決定するのかと思うと、さすがに胸が痛む。

手続きをすませた安堵に似た気持とが交差する。保養園では一年生は彼一人。それを思うと再び鼓動が高なる。

 

 その頃、子どもは割合元気で、赤いさくらの名札を胸に、上級生に手を引かれて広路小学校へ通い始めた。夜になると私の机の側に床をのべ、私のスカートの端をしっかりと握りしめたり、私の枕をだいたりして、未だ見ぬ武豊の夢を描きながら、あどけなく眠る我が子の顔の上に、はらはらと涙する宵が幾夜も続いた。どうぞ一日も早く目的を達成して健康になり、再びこうして我が子の寝顔をのぞける日が訪れる様に……やわらかい小さな手を、そっと握りしめてやりながら、そう祈らずには居られなかった。

 

 あれからもう三ヶ月たった。ママの愛情を一人占めしてきたあんな甘えっこが、元気で保養園生活を送って呉れている。

それが今の私にとって一番の喜びである。

 

 それにつけても保養園の職員の方々が醸し出される雰囲気は素晴らしいものだと、全く感服すると共に、そのご努力に対して深い感謝の念を禁じ得ないのである。

 

 人は言う「あんたはやっぱりきつい、私ら子供を手放す事はようせん」私は「やっぱりきつい」かも知れない。併し、母親として子を思う情に変わりはない。四つ切版に延ばした我が子の写真を机上に飾って、

我が子と視線が合う度に、わけもなく涙が頬をぬらす平凡な女ではある。

 人からとかくの評を受けて苦笑いする私の心の中では、只一人のしかも未だ年端もいかぬ我が子を、

保養園へ送ったことを誇らしくさえ思っている。

それ丈に完全な健康体になって呉れる日を、一日千秋の思いで待ちわびているのである。

 

(文集)『たけとよ』二号から(昭三一)

 

遺稿回想2

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 【病める子を思う母の記】

 

六月三日、入園して一ヵ月余り、入園当初は緊張していた故か「どんなにか、お淋しいことでございましょう。」「お小さいのに、よく手離されましたね。おかわいそうに」等と言われると、当時はさのみ淋しさを感じていなかったので、私の心は冷たいのだろうかと、我と我が心を疑ってみるのだった。

 

 併し一ヵ月余りたつと、子供の居ない生活に馴れて来た筈なのに、事実は全く逆で堪え難い淋しさと悲しみに似た空虚なやるせなさとが、苦しみに変わりつつあった。

 手を繋ぎ合って、満ち足りた表情の母と子を見かけると、つい涙があふれた。何も見まいと思って勤めの行き帰りには、乗り物の待ち時間も車中も、好きな本を読む事に心掛けようとした。だが、それは只いたずらに活字を追うに過ぎず、何も頭に残らなかった。一寸でも立ち止まってぼんやりしていようものなら、空の青さが、雲の白さが、無情に悲しくなって、地に突っ伏して泣き度い程の苦しさを感ずる。

 そんな私を救って呉れたのは仕事であった。仕事に魂を打ち込んでいる時状は忘れる事が出来た。

併しその仕事故に、一日千秋の思いで待った一ヵ月一回の面会日に午後しか行けない羽目になってしまった。仕事に追われ、生活に追われる親を持った子供の哀れさを、つくづく思わないではいられなかった。

 

 安静時間終了のベルと同時に飛びついてでも来るかと思っていたのに「ママァー」と、恥かしげに笑っただけで、後は「ジープ持って来た?」「競争自動車もって来た?」と玩具の催促。しばらくは私の側ではしゃいでいたが「ママ、待っててね」と言い置いて、自動車を抱いて駈け出して行く。子供とは、こんなものであろうか。

 

 九月七日。今日も亦午前中は授業で面会に行かれない。私は我が子の母親である前に、六十人の児童の教師であらねばならないのだ。これは私の生活にとっては峻厳な鉄則であり束縛でもある。「ママ、武豊へ行けば日曜日は朝から晩まで、ママと一緒に遊べるの?だったら僕、武豊へ行ってもいいよ」

 私は思わず落涙した。あの入園の決意をさせた日のことを思い出す。ただただ一日母と共にありたい。それが幼い彼の唯一無二の願いであったのだ。それを思うと私は我が子をだまして武豊へ連れて行った様な結果になってしまった事を、済まなく思わずには居られない。

 

 そういえば、入園後二、三ヵ月は平仮名ばかりの手紙だったのが、近頃カタカナと漢字の音にだけ合せた、まるで万葉集でも読むようなややこしい文章に代った。催促して来る物といえば、極って玩具だったのが、最近急に本をねだるようになり、月一回の面会というのに水入らずで久々語り合いたい親の気持等全く無視して、本に齧りついたまま、目も離さず、返事もしないで童話に夢中になっている我が子の姿が私には不思議でならない。

 

加藤ハツ遺稿集(抜粋)より

遺された平和への願い

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 92歳、現役女社長のまま逝った、加藤ハツ吹上文化サロン館長

の書き記したものが見つかりました。

 

 冒頭「ありがとう!!今日まで生かされたことに感謝します」と

書かれた文字に、すべての思いが集約されていますが、

「現在の様な状態のまま去る事は断腸の思いです」と続けられていました。

 

 「父は植物学者として自分の意志を貫き、教師としても良き子弟を

育てました。母は世の為になることを信条に、内助の功に徹しました。

両親の生き方を考える時、現状がみじめであっても許してもらえると思います。

 私が全てを失ったとしても、それが修滋の音楽活動にいきるとあれば、

私もまた母と同じ気持ちです。」

 

 「音楽が言葉も国境も越え、世界の人の心を結ぶ素晴らしい力を持っている事は

万人の認める所です。ただ、その活動によって不幸になる人があってはなりません。

 私の人生でただ一点の悔いは、エルムを拠点に一生懸命活動して下さる皆さんに対し、

何一つ応えられず、生活の心配や不安を抱かせていることです。お許しください。」

 

 「あの戦争さえなければ、このような思いを皆さんも私もせずに済んだはず。

やはり平和でなければ…と切に祈るばかりです。平和でなければ文化は育ちません。」

 

『月刊なごや NO.385』より

待ってたよ!シャルル!!

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シャルル・アズナヴール94才でのワールド・コンサート・ツアーが、

いよいよ日本へ。

5月に骨折で延期となったものだが、今回こそ、元気な姿を観たい。

 

東京・大阪の2都市だけだが、両方へ出かける人も幾人もいて

(かく言う私も!)人気の高さは衰えていない。

今回の来日は、バックがピアノ・カルテット+コーラスなので、

シャンソンを演奏する人たちにとっては、またとないお手本に

なること受けあい!

 

デュエットをする為に、娘のカティアもパーソナル・マネージャー

として、また息子のニコラも一緒なので彼女たちと会えるのも嬉しい。

 

あとは、台風等天候だけが心配……。


シャルルとの約束

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5月22日の誕生日前後、93才最後と94才最初のコンサートを

日本でする予定だったシャルル・アズナヴールが、

骨折で来日公演できなくなった時、

「秋には必ず日本公演をする」と力説した通り、

9月17日と9月19日に東京・大阪で感動的なステージを挙行。

 

「何があっても日本へ行く」と言ったシャルルは、その約束を守り、

予想・期待を以上のステージをしてくれました。

 

報道では東京のコンサートのことしか書かれていませんが、

私は、大阪の方が声の通りも良く、乗っていたように感じました。

 

ただ、休憩なしのスタイルを貫くシャンソン・フランセーズ・ヴァリエテ歌手ゆえ

90分ずっとステージ上で、「祈り・願い・叫び」を見事に歌い分け、

時に軽妙な2ステップも踏んだ翌々日だけに、疲労はひどく

腕の痛みもあると言っていた通り、1時間程で杖を持ち出して歌唱。

(東京では、フィナーレで花を受け取る時だけ杖を使っていました)

 

客席からの花は受け取っても、物品のプレゼントは「腕が痛いので」と

舞監に直接受け取らせるシーンも。

しかし最後には、途中で脱いでピアノの上に置いた上着を、軽やかに

振り回して、ステージの上手に放り投げ「俺は元気!」

というパフォーマンスを披露。(東京では、上着をピアノの上に置いたまま退場)

これが人生最後のステージ・パフォーマンス。

 

9月28日にはFrance5で「100才まで生きる」と語っていたというのに、

急に我々の眼前から消えたことは「神かくし?」という印象。

 

颯爽とした潔いステージ・ラスト・シーンは大阪の観客1,000人の眼に

焼きついているでしょう。

東京2,500人の観客には全曲杖なしで(大阪では途中から杖を持ち出しました)

歌い切った勇姿が忘れられないでしょう。

 

未だにシャルルの死は、現実として受け入れられません。

毎日新聞記事より【先月日本公演 アズナヴールさん死去】

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----『毎日新聞 10月3日』記事より----

 

94歳で死去したフランスを代表するシャンソン歌手、

シャルル・アズナヴールさんと1989年から親交がある

日仏シャンソン協会日本支局(名古屋市)の加藤修滋支局長(69)

は、1日夜に入った悲報に「9月の日本公演で元気に歌ったばかり

なのに信じられない」と肩を落とした。

 

加藤さんはアズナヴールさん作曲の「青春という宝」「不滅のアーティスト」

など7曲の歌詞を日本語訳し、フランスの著作権団体(SACEM)に登録

されている。2004年にSACEMの特別功労賞メダルを授与された。

 

加藤さんの母ハツさん(14年に92歳で死去)はシャンソン歌手に舞台を

提供し、アズナヴールさんから「日本のシャンソンの母」と呼ばれた。

加藤さんも88年、シャンソンを通じて日仏文化交流を進めようと

名古屋市千種区に日本支局を開設し、

ライブハウス「カフェ・コンセール・エルム」を開いた。

エルムを拠点に親子でシャンソン歌手を育成し、加藤さん自らライブで

ピアノ伴奏している。

 

94年に加藤さんは、シャンソンの普及に努めたとして仏政府から芸術文化勲章

シュバリエを受章した。その活動などで、フランスは名古屋が日本のシャンソンの

中心地と認識されているという。

 

加藤さんとアズナヴールさんの出会いは、89年に日本の歌手を連れて行って

初開催したエルムのパリ公演。代表曲の「青春という宝」の日本語訳詞を見せて

許諾を得た。アズナヴールさんは68年に日本公演を始めて日仏の文化交流を

重ね、今春に旭日小綬章を受章した。来日11回目となる9月公演は東京と大阪

で開催され、同行した加藤さんは「あなたの健康のために」と、アズナヴールさんの

名前を付けたオリーブオイルを土産にもらった。

 

悲報は1日午後9時過ぎ、日本支局パリ駐在員からメールで知らされた。

加藤さんは「アズナヴールは9月28日にフランスのテレビで『100歳まで生きる』

と話していた。ワインを飲んで朝風呂に入って亡くなったのを発見されたと

聞いている」と話す。

 

                           

名古屋ボストン美術館閉館に想う

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「惜しまれつつ、名古屋ボストン美術館が20年の歴史に

幕を下ろす」とメディアが報じています。

いかに内容的に工夫された展示であったか、

そして学芸員のがんばったことが過去形で

報じられているのは、とても淋しい。

 

日本に名を轟かせた絵本の「メルヘンハウス」の時も同様。

すべてが過去形でしか語られないのは何故?

そもそも、文化・芸術の類は、採算で考えるのでなく、

後世に伝えるべき価値で考えなければならない。

素晴らしい運営の理念や、よく練られた展示の内容を、

もっと多くのメディアが、閉館に至らないように

バック・アップ報道すべきなのでは?

 

大須演芸場が幾度も「閉館詐欺」と揶揄されつつも

新聞報道の度に、来場者がふえたように(飲食店でも、

閉店が決まらないと報じられないことが多い)

事が起きる前に、何とか方法はなかったものかと

思います。

PONT NEUF2004年夏号より【C.アズナヴールからの贈り物】

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---『PONT NEUF』(シャンソン情報季刊誌2004年夏号)より---

 

去る5月3日、パリ郊外のSACEM(フランス作詞家作曲家

楽譜出版社協会)本部に於いて、私に対する特別功労賞の

メダル授与式が行われました。

SACEMは、日本のJASRACと同じ音楽著作権団体で、

その本部VIPルーム(ジョルジュ・オリーの間)にフランス音楽業界

の著名人60人が集まって、祝賀パーティーも開かれました。

シャルル・アズナヴール、ジャック・ドマルニ、モーリス・ファノン、

クロード・ルメール等の偉大なるシャンソンや、パトリシア・カース、

パトリック・ブリュエル、フランソワ・フェルドマン等の新しいシャンソンを、

原詞に忠実な訳詞をつけて日本に紹介した功績に対して与えられたものです。

もちろん、日本人訳詞家として最初の栄誉だそうです。(同様の賞を1982年に、

アルゼンチン音楽著作権・演奏者教会=SADAICからもいただいて、

2ヶ国からの受賞は日本人初)。

 

とりわけ、愛知万博グローバルイメージソング「ブラボー!ムッシュ・ル・モンド」

を世界各国の言葉とリズムで普及させたことが賞の第1理由になっていたので、

その作者、ピエール・ドラノエとミッシェル・フューガンをはじめ、ジャック・ドマルニ

クロード・ルメール、ミッシェル・ジュールダン(人気作詞家)、フランク・トマ(「サヨナラ」

の作者)等、ビッグなアーティストが数多く集まってくれました。

私にしてみれば、通常、各々のマネージャーを通じて個々に面会することですら

困難な人たちが、一同に会して、逆に私を迎えてくれたのですから、

天にも昇る心地でした。

 

でも、本心を言えば、何より嬉しかったのは、その前日の出来事です。

80才を記念するシャルル・アズナヴールのリサイタル(約1ヶ月、10万人を集めて)

会場、パレ・デ・コングレの楽屋に招かれ、5月2日の夜、

開演前の忙しい中、30分もアズナヴールと話しができたのです。

おまけに、“今、まだ化粧前なので(注・ジョーク)終演後に一緒に写真を撮ろう。

渡したいものもあるし…”と言い、

“コンサートの前と後の両方会う日本人は、君が2人目。

最初は、アシハラ・エイリョウ…”と言ってくれました。

素晴らしいコンサートの興奮さめやらぬ中、楽屋口へ行くと、

多くのファンが待っていました。

かき分けて入ろうか、どうしようか?と考えていたら、“ムッシュ、カトウ”という

声。ベースのトニー・ボンフィスでした。レーモン・ルフェーブル・オーケストラの

メンバーとして来日した時に会っただけなのに、覚えていてくれたのです。

 

楽屋へ入ると、“明日は、シュウジにとても立派な賞が与えられるが、

私はこうしてリサイタルをしているので行けない。かわりに、祝辞を書く”

と言って、眼の前で、メッセージを書いてくれました。

そして、“化粧してなくても、さほど変わらなかったかな?”と笑いながら、

写真も一緒に撮ってくれました。私にとっては、何よりのプレゼントで、

5月3日SACEM会場にて、そのメッセージをジャクリーヌ・ダノが代読してくれ、

大きな拍手がありました。

 

アズナヴールが、一番嬉しそうな顔をしたのは、かつて、アストル・ピアソラが、

私たちのライヴ・ハウス「カフェ・コンセール・エルム」へ来た時に残した言葉を

伝えた時でした。

“アズナヴールのシャンソンと我々の言葉(注・当時、異端視されていた

ピアソラタンゴ)との共通点は、躍動するリズムと哀愁のメロディー。

歌に込められた主張、とりわけ「愛」”

 

                        日仏シャンソン協会日本支局長 加藤修滋

 

 

 

誰かが伝えなければ、その事実はなかったことになる~何故、報じられない?シャルル最後のステージ~

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まずもって、イラク戦争で群衆に引き倒されたフセイン銅像の映像について触れたい。

その時、私はパリで衝撃映像を見た。英米のメディアとは別アングルのアルジャジーラの映像

からは、群衆の歓喜が読み取れない。

撮影角度・方向がちがうだけで、こんなにも事実がちがって見える!とショック。

以来、ニュースは複数メディアで、なるべく多くを比較するようにしている。

 

ところが、それ以上に残念なことが今、身近で起きていることに黙っていられない。

それは、私の友人=シャルル・アズナヴール94才最後のステージに関して。

 

<9月17日(東京)ではなく19日(大阪)が、ファイナル・ステージなのに……>

 シャルル逝去に伴って、94才最後の日本公演として9月17日東京でのコンサートへの

賞讃記事・評論家寄稿が続いた。

でも、9月19日大阪でのコンサートが彼の人生最後(=世界で最後)のステージ。

    

東京と大阪ではステージの様子は全くちがうのに、それを報ずることなく、

中には「3,800人、満席」という誤報も。

私は友人として、9月17日の東京、19日の大阪、共に客席から見守りました。

そして東京では楽屋で、大阪では宿泊ホテルで面談し、忘れることのできない言葉

(それを、私は仲間たちと共に伝えるべき責務と感じている)を交わした。

世界中のシャルル・ファンのうち大阪公演へ出かけた1,000人だけが、

彼のファイナル・ステージの鮮やかなラスト・シーンを見ることができた!

日本のメディアが、それらの人を通じて報じるべき事実を集めることなくして

シャルルの真の姿が後世に伝えられないのではないかという疑問をずっと抱いたまま、

今日に至っている。

 

<杖と花束&プレゼント>

5月来日予定直前に転倒し、上腕骨折。完治とのことだったが、

実は、痛みのあるまま9月に来日し、振替公演挙行。

シャルルは、私に会うなり「約束は守ったよ」と言った。

2年前に来日の折、「また来日して歌うよ。平和な世界の為に……」と約束したことを覚えていた。

唯一の被爆国=日本での公演は、シャルルによってアルメニア公演同様、

特別な思い入れがあるもの。

それゆえ自作の反戦歌「美しき絆」に、日本語訳をつけるよう依頼し、

いち早く法定訳詞登録をしてくれたと思われる。

シャルルは<平和希求>の使者として訪日を約束し、

それを守る為の使命感を携えて来日公演を挙行。

 

9月17日(東京)、彼は歌い終えた後、カーテンコールで(がまんしきれず)杖を手にして登場。

ステージに立つ者としては見せたくない姿だが、そうせざるを得なかった。

ところが、9月19日(大阪)は、プログラムの半ば過ぎで、もう杖をつき始めた。

東京公演で、いかに疲れ果てていたかの証。

前日、9月18日に大阪のホテルで会った時、彼は杖をついて車から降り、

「とても疲れている。腕も痛い」と言って顔をしかめた。

そんな弱音を吐くシャルルを見たのは30年で初めて。

9月28日、帰国直後にもかかわらず、パリでFrance 5(TV)スタジオ入りの時は、杖をつかずに歩行。

(しかもインタヴューに答えて「100才のコンサート」を口にしていた)

東京では、花束を一度受け取ってからマネージャーに渡していたが、

大阪(地域柄、酒等物品が多い)では「腕が痛いから」と、

直接マネージャーに受け取らせるシーンにも驚かされた。しゃがむことすら苦痛だった。

 

<歌声も、リズムのノリも、表現意欲も、大阪の方が東京より上>

東京での声の伸び、張り、大阪の方が良好。疲れがひどいと言っていたのに、リズムのノリも、

更に「歌に込められた主張」(注:後述するアストル・ピアソラが私に語ったシャルル評)も明確。

東京も大阪も同様だったのが「青春という宝」の1番をディクションで、メロディーをカットして、

ナレーションと歌の中間表現(タンゴのレシタード風)で、2番から伴奏を入れたスタイル。

言及している人がいないが、これは「青春3部作」(青春という宝、ラ・ボエーム、帰り来ぬ青春)の中でも

「青春という宝」が、いかにその詞の内容が大切かを物語っている。

 

フランスでは、せっかく自分が作曲したメロディーもリズムも奏でることを放棄してまで、

伝えるべき詞(ポエム)がある曲に限って、この手法を使う。

もちろんフランス人の間での楽曲評価としても、

シャルル自身にとっても「青春という宝」が特別なものであることの証明。

      

 

<垣間見た2つの顔=アーティストとして、そして父親として>

私の音楽の師であり、友人でもあったアルゼンチンのアストル・ピアソラの言葉を、

パレ・デ・コングレ(パリ)でのリサイタルの折、

楽屋でシャルルに伝えた時の誇らしげな笑顔を忘れられない。

“アズナヴールのシャンソンと私の音楽(俗に言う前衛タンゴ)”との共通点は、

躍動するリズムと哀愁のメロディー。歌に込められた主張、とりわけ“愛”。

 ちょうどその時、娘カティアが入って来て

“パパ、お腹減った。サンドイッチ買うからお金ちょうだい”と言った時、

瞬時にして優しい父親の顔付きとなったことも……。

 

<弱者への優しい眼差しと平和希求の曲作り>

お客様・ミュージシャン・スタッフをとても大切にし、

その絆を一瞬にして断ち切る戦争を憎む視点での反戦歌の数々。

マイノリティーへの優しい心遣いが織りなされた作品……。

同性愛者の歌を発表し、国際障害者年に先駆けて手話入りの歌を、

そして移民たちへのメッセージ・ソング……。それらの熱い想いを込めた作品郡も、

彼の多くのラブ・ソングに覆い隠されてしまいがち。

シャルルが、いち早く反戦的シャンソン「美しき絆」の日本語訳詞を私に依頼した理由は

<平和希求>活動を続ける私たちへの応援の意味がある。

私の日本語訳詞をSACEMとJASRACに法定訳詞として登録をしてくれたことは言うまでもない。

 

<平和のシンボル=オリーヴ・オイルと、アズナヴール農園のオリーヴ油>

9月17日東京公演の楽屋へ私を招いたシャルルは「あなたの健康の為に」と言って、

1ℓのオリーヴ油缶を新しい著書と共にプレゼントしてくれた。

 翌日、大阪のホテルで会った時も「昨日のオリーヴ油で、ママKATOのように元気で長生きして下さい。

オリーヴは平和のシンボルです。私が自宅の庭で育て続けたものです」と、重ねて<平和希求>の願いを強調。

20年以上前から彼が育てたのはオリーヴ・オイルだけでなく花言葉の「平和」だった。

彼の息子ミシャは、シャルルの死を悼んで詩を書きました。

その中にも、そのオリーヴに言及した一節がある。

 

Adieu mon pere , adieu mon ange , mon amour .

(さようなら父よ、さようなら私の天使、私の愛する人よ)

La maison se dresse toujours au milieu des oliviers .

(家は今も変わらずオリーヴの木の真ん中にそびえ立っている)

 

     

 

新しい「法定訳詞」登録手続完了

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フランスの音楽著作権団体SACEMの受付完了印の押された書類到着!

シャンソン大使も歴任したシンガー・ソング・ライター「ヴェルムーラン」の

「朝の終着駅」が法定訳詞に!

 

「カヴァー申請」(訳詞をつけるだけで、権利放棄)だけでもむつかしい昨今、

スムーズに「法定訳詞」として認められたのは、驚き。

 

この曲を最初にCD録音した「法定訳詞創唱者」は、浜﨑久美子。

シャルル・アズナヴールがバック・アップしていて、彼女の歌う

新しいアズナヴールの曲を4曲も「法定訳詞」として認めていることを知る人は少ない。

 

それだけでなく、ミッシェル・フューガン、ミッシェル・ジュールダン、リンダ・ルメイ等

多くのアーティストが彼女の歌うシャンソンを「法定訳詞」として認めていることからも、

その歌唱がフランス人好みであることがわかる。

       

シャルル・アズナヴールとの絆、報道合戦

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シャルル・アズナヴールとエルム、そして永田文夫シャンソン研究所の

歌手との交流が、メディアで報道合戦の様相。

 

朝日、毎日、読売、北海道新聞に加え、共同通信配信で各地方紙、

更には日経新聞も記事掲載。

週刊新潮、東海財界などの雑誌も加わって、

それぞれ報道視点をかえてくり返し報道。

 

朝日新聞は芸能部も社会部もとり上げ、

さすが「文化は朝日」と言うべきかも……。

毎日新聞は近々、関西版でも記事掲載予定。

 

これらの記事は、フランス語に訳してシャルルの家族たちに

送る予定。

 

     

 

 


シャルル・アズナヴールの教え

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昨年10月1日、天に召されたシャルル・アズナヴールは、

晩年の20年間、日本のシャンソン歌手たちに、

革命的な歌唱法を伝授しました。

 

「彼の歌は、レシタードだ」と評した、タンゴの巨匠=アストル・ピアソラ。

「眼差しだけで人生を語る」という賞讃の表現でオマージュを作詞・作曲した

ミッシェル・ジュールダンの言葉を待つまでもなく、

口を動かすだけで声を発しない、俗称「内緒話唱法」、

観客の感情を引き出す為の「アインザッツ唱法」をはじめ、

工夫に工夫を重ねた独特の歌唱法は、

シャルル・アズナヴールを日本に紹介した功労者の一人でもある永田文夫氏によって

「永田文夫シャンソン研究所」の歌手たちに直接指導され、

更に、カフェ・ド・ラ・ダンス創立者=カトリーヌ・アトラニが創設した「フランス・シャンソン芸術協会」

発行の「シャンソン・ディプロム」(シャンソン免許状)最高位保持者でもある瀬間千恵、菅原洋一、

堀内環、指導者証取得者の岡山加代子、青山桂子等を通じても、広められて来ました。

 

歌い方については、実際のレッスンや講座の中でしか伝えづらいのですが、

一番わかりやすいのは、視覚でわかる<マイクの持ち方=角度と距離>です。

シュアーSM 57の時代(1970年代)、彼はマイクを直角に立てて歌唱。

SM 58が一般的になってからは、若干斜め(と言っても45度以内)にして、

耳障りの良くないポップ・ノイズ、リップ・ノイズを避け、

更に、客席に聴覚障害者がいても発語がわかるように配慮。

 

それ以上に、世界中でメッセージを伝える為に、

パントマイム手法も採り入れ、眼と口の表情を重視しました。

アズナヴールが教えてくれた多くのことをまだまだ歌手たちに、

受け継がねばならないと思っています。

シャルル・アズナヴールの教え(2)

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シャルル・アズナヴールが我々に伝えてくれた歌唱法については、

随分多くの方々から「目からウロコ!」の反響がありました。

しかし、最も声高に叫び、継承すべきなのは彼の歌に対する思いと、

生涯貫いた主張です。

決して恵まれたルックス・身長・声ではない彼が、シャンソンの父と

称賛されるに至った陰には、並々ならぬ努力がありました。

ピアノの上に乗り、立ち上がって歌うパフォーマンス(1972年オランピア)、

服を着替えつつの歌唱(50代まで)、手話を交えたステージング(生涯)、

数を挙げたらキリがありません。

 

何より「家族や仲間との絆」を大切にしたこと。

そして<平和希求>の思想。

私への最後のプレゼントは、自宅の農園で育てたオリーヴの木から搾った

「オリーヴ・オイル」。わざわざフランスから1ℓ缶を持参して

「あなたの健康の為に」といって手渡してくれたのは、

私が「重症筋無力症」から回復途上であることへの心配り。

自分が骨折から完治しない痛みをかかえつつの厚意には、ただ涙。

 

最後に大阪でかけてくれた言葉「オリーヴは平和のシンボル。体を大切に、

加藤ハツさんが言うように、平和を歌で訴え続けて下さい」

に込められた平和希求を貫く生き方は、我々が継承すべきものだと

心に刻んでいます。

 

シャルル・アズナヴールを評価したアストル・ピアソラ

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タンゴの巨匠=アストル・ピアソラがカフェ・コンセール・エルム

の2階のmss小劇場へ来館した折のこと。

 

最も評価する歌手は?とたずねると

「シャルル・アズナヴール」と答えたのにはビックリ。

名のあるタンゴ歌手ではなく、シャルルの名前を聞くとは……!

「彼の歌は、レシタードだ」、そして「彼の歌と我々の音楽

(注:当時、異端視されていたアストルの前衛タンゴ)の共通点は、

「躍動するリズムと哀愁のメロディー、歌に込められた主張、とりわけ“愛”」

と語ってくれました。

 

今にして思えば、次々と色々な歌のスタイルを実験し、その中から

必要なものだけを残そうとしたシャルルと、クロス・オーバー・ミュージックの

先駆者でもあったアストルは、その音楽追及姿勢に於いて、

共通するものがあったと思われます。

 

ちなみに、アストル自身は、世界の音楽シーンに衝撃を与えた

ジェリー・マリガン(バリトンSax)との共演LPと「リベルタンゴ」の

LPには決して満足していないようでした。

「新しいスタイルの実験としての成功はしたかもしれないが、

作品としては駄作かな……」と言いつつ、

古典タンゴに立脚しながら、斬新なサウンドを構築したキンテートに

回帰する予感を与えました。

(何と言っても「アディオス・ノニーノ」が渾身の力を込めた名作)

理想的なシャンソン空間とは?

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『 るたん 愛と人生の歌=シャンソン 2019.5 』より

<名古屋巴里祭で画期的なコンサート実験>

毎年7月にシャンソン・フェスティバルとして46年間継続開催されて来た名古屋巴里祭には、

ジャクリーヌ・ダノ、ジャクリーヌ・ボワイエ、マリ=ポール・ベル、美輪明宏、菅原洋一、

瀬間千恵等、国内外のトップ・シンガーを中心に、大~中の劇場での催事でした。

ところが、毎年来日するシャンソン大使たちは、口を揃えて「シャンソンは本来、

小さな空間が良く似合う」と言いました。

そこで今年は、趣きを変えてホテル・ナゴヤキャッスルの特別室「ル・ノーブルサロン・シャンボール」

で1卓9人×8卓=72人限定の企画を立てました。

選ばれた72人のお客様としてのステイタスにひたりつつ、

飲食と共にリラックスしてシャンソンを楽しめる「理想のシャンソン空間」が2日間登場するわけです。

 

<元祖「理想のシャンソン空間」>

フランス・シャンソン芸術協会創設会長で「カフェ・ド・ラ・ダンス」やシャンソン・リテレール派レコード会社

「ル・ループ・ドゥ・フォーブール」を起こしたカトリーヌ・アトラニ女史は、「カフェ・コンセール・エルム」を

「理想のシャンソン空間」と評し、多くのフランス人アーティストを送り込んで、エルムのステージに立たせて来ました。

そこで、今回の少人数での巴里祭を企画したのですが、厨房の広さや料理の態勢が追いつかない為、ホテルの特別室を会場とすることとなりました。

 

<ランチ、ティー、ディナーの3公演×2日間>

ランチ・ショー、ティー・タイム・ショー、ディナー・ショーと切り替えをしつつ、3公演を2日間という企画は、

まさに発想の転換。更に、各々選び抜かれた出演者を、72名のみで楽しめるということに加え、

全公演に第25代シャンソン大使=ミッシェル・グラスコのアコーディオンが加わって、

ステージ内容もハイ・グレード。

特に今回、ディナー・ショーを担当するのは、ミュージカル出身の沢木順と女優出身の夏樹陽子。

シャンソン界に新風を吹き込んでいる二人が、ミッシェル・グラスコと、どうコラボレーションするのか

が楽しみ。

 

<永年シャンソン大使にミッシェル・グラスコが就任>

1991年から、フランスよりシャンソン大使が来日し、全国各都市を代表する歌手と共演をする為に、

ジャパン・ツアーを実施。中でも石井好子の協力で実現したジャクリーヌ・ダノ、千葉美月の協力で

実現したマリ=ポール・ベルとヴェルムーランの東京公演は、大きな話題となりました。

その中でも、歴代シャンソン大使の随行員として2003年に初来日したアコーディオンの

ミッシェル・グラスコは毎年のように来日し、2011年には遂に、本人が演奏者として初めて

第17代シャンソン大使として来日、今年も第25代シャンソン大使として来日。

更に、来年からは永年大使となることが内定。各都市での人気が極めて高く、共演希望者が

殺到していることから、異例の就任となったことにより、歌唱法、歌唱時の姿勢が改善される

日本人歌手が増すと思われます。

 

素朴な疑問

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この数年、シャンソン・ライブやコンサート会場で疑問に思うこと有。

①歌手が、自分の笑い声をマイクに入れるので、歌そのものが

 添えものになっている。(かつては、笑うのは客席で、ステージ上の

 人は笑わせる側だった)

②息を口でする音がマイクに入る。(呼吸は基本的に鼻で吸って、

 口から吐くもの)

③「ブラボー」が多量かつ軽薄に飛びかう。(プロのフェスティバル形式

 のコンサートでも)

④歌手が1曲ごとに「ありがとうございます」と言う。(「有り難い」とは、

 滅多にないことから来ているので、ステージの最後に1回で充分)

⑤大音量の渦の中で聴くライブやコンサートが多い。(繊細なピアノや

 ピアニッシモで歌う人が少なくなった)

 

先日、何年か振りに仲マサコさんと電話でお話しした折に、

意見があったのは、このところ歌そのもの(特にシャンソンという

フランス発、日本で成長した文化)に対する、愛情・愛着を持たない歌手

がふえ、声のかたまりのような歌手=作品としての楽曲へのリスペクト

が不足する人が見受けられるとのこと。

 

かつての銀巴里はじめ、多くのシャンソンニエでは、歌に愛着を持った

シャンソン歌手があふれていたのに……。

 

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