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Channel: 加藤修滋のブログ
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極論を言うならば

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極論を言うならば

よく耳にする言葉。

 

「どのようにシャンソンが広まる?」

 

あえて言うなら、かつての民音タンゴシリーズのように民音シャンソン・シリーズとして、毎年素晴らしいアーティストを全国津々浦々で公演する事に尽きます。

 

日本にタンゴが根付いた頃は、雑誌「中南米音楽」や、個人の愛好者、団体が独自に発行するタンゴ誌があり、加えて毎年アルゼンチンの一流楽団(それも多くは、コンフントでなくオルケスタ)が民音タンゴ・シリーズで3ヵ月かけて日本各地で公演。

 

 

更に「前座」扱いで、これも超素晴らしいフォルクローレまでもが加わっていました。

 

各都市では終演後、ファンとのパーティー等もあって

とてもフランクにスター楽団員との交流が持たれました。

 

 

 

特に、名古屋・伏見にあったタンゴ喫茶「フェシリア」では明け方まで飲めや歌えやで大盛り上がり。

 

アルゼンチンのマエストロ達は、日本公演の折に名古屋の「フェリシア」に招かれることがステータスと言い切りました。

 

当時、労音と民音が覇を競っていました。

 

市民会館の前を通って「自転車がたくさん駐輪していれば民音の催事」と言うほど、観客は庶民的。

 

 

 

ちなみにシャンソンは「高級クラブによるシャンソン歌手囲い込み」なる現象。

 

越路吹雪の「べラミ」のように高額な店で聴くもの・・・・・という傾向も有り。

 

タンゴ・デ・ラ・エスペランサのアルゼンチン公演で、我々を招待してくれた

 

 

R.バンセーラ(当時のSADAIC会長)、

A.ポンティエール、

F.カンバレリ、

C.ラサリ、

R.ガレーロ、

J.リベルテーラ、

A.ポンティエル、

O.プグリエーセ、

H.バレーラ・・・・・

 

 

考えられない程多くのマエストロ達は、皆、民音タンゴ・シリーズによる交流から生まれました。

 

民音シリーズがなければ今日のタンゴ・ファンの大半は誕生しなかったでしょう。

 

 

 

肝心なのは「一流」と言う事。

 

 

 

シャンソンは、C.アズナヴ―ル以後、「一流」の来日は少なく、それも全国3~4ヶ所のみ。

やはり百聞は一見にしかず!

 

シャンソン大使として来日したJ.ダノの全国ツアー(10都市公演)の企画をした当時が懐かしい。

 

 

今後、フランスから一流のアーティストが全国各地を公演する事がシャンソン復活の秘策!


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