【病める子を思う母の記】
六月三日、入園して一ヵ月余り、入園当初は緊張していた故か「どんなにか、お淋しいことでございましょう。」「お小さいのに、よく手離されましたね。おかわいそうに」等と言われると、当時はさのみ淋しさを感じていなかったので、私の心は冷たいのだろうかと、我と我が心を疑ってみるのだった。
併し一ヵ月余りたつと、子供の居ない生活に馴れて来た筈なのに、事実は全く逆で堪え難い淋しさと悲しみに似た空虚なやるせなさとが、苦しみに変わりつつあった。
手を繋ぎ合って、満ち足りた表情の母と子を見かけると、つい涙があふれた。何も見まいと思って勤めの行き帰りには、乗り物の待ち時間も車中も、好きな本を読む事に心掛けようとした。だが、それは只いたずらに活字を追うに過ぎず、何も頭に残らなかった。一寸でも立ち止まってぼんやりしていようものなら、空の青さが、雲の白さが、無情に悲しくなって、地に突っ伏して泣き度い程の苦しさを感ずる。
そんな私を救って呉れたのは仕事であった。仕事に魂を打ち込んでいる時状は忘れる事が出来た。
併しその仕事故に、一日千秋の思いで待った一ヵ月一回の面会日に午後しか行けない羽目になってしまった。仕事に追われ、生活に追われる親を持った子供の哀れさを、つくづく思わないではいられなかった。
安静時間終了のベルと同時に飛びついてでも来るかと思っていたのに「ママァー」と、恥かしげに笑っただけで、後は「ジープ持って来た?」「競争自動車もって来た?」と玩具の催促。しばらくは私の側ではしゃいでいたが「ママ、待っててね」と言い置いて、自動車を抱いて駈け出して行く。子供とは、こんなものであろうか。
九月七日。今日も亦午前中は授業で面会に行かれない。私は我が子の母親である前に、六十人の児童の教師であらねばならないのだ。これは私の生活にとっては峻厳な鉄則であり束縛でもある。「ママ、武豊へ行けば日曜日は朝から晩まで、ママと一緒に遊べるの?だったら僕、武豊へ行ってもいいよ」
私は思わず落涙した。あの入園の決意をさせた日のことを思い出す。ただただ一日母と共にありたい。それが幼い彼の唯一無二の願いであったのだ。それを思うと私は我が子をだまして武豊へ連れて行った様な結果になってしまった事を、済まなく思わずには居られない。
そういえば、入園後二、三ヵ月は平仮名ばかりの手紙だったのが、近頃カタカナと漢字の音にだけ合せた、まるで万葉集でも読むようなややこしい文章に代った。催促して来る物といえば、極って玩具だったのが、最近急に本をねだるようになり、月一回の面会というのに水入らずで久々語り合いたい親の気持等全く無視して、本に齧りついたまま、目も離さず、返事もしないで童話に夢中になっている我が子の姿が私には不思議でならない。
加藤ハツ遺稿集(抜粋)より