(有)吹上文化サロン代表取締役館長、
日仏シャンソン協会理事長・加藤ハツが92才の生涯を閉じました。
最後の一ヶ月近くは何も口にせず、日毎にやせて行くのに、
見舞客の手を握り締める力の強さは驚くばかり。
最後は、まるで生きたまま仏になったかのような静かな逝き方でした。
私は、ずっと「お母さん」と呼ぶことはなく他の人たち同様「館長」と呼び、
母は私のことを「先生」と呼ぶ関係のままでした。
危篤となったのは「名古屋巴里祭」の時ですが、
私にそれが知らされたのはコンサート終了後でした。
瀬間千恵さんの、まるで命を賭すかのような「生きる」を伴奏しつつ、
涙が自分の頬を伝っていることに気づきましたが、
フィナーレの後、無言で力強く私を抱きしめられた瀬間さんは、
既に何かを感じておられたようです。
喪主であるにもかかわらず、
折から来日中のシャンソン大使J.Pメナジェと共に日本各都市公演の為、
火葬にも立ち会えませんでした。
母の耳もとに携帯電話を置いてもらうように頼んでおいたので、
ゲネプロの前に、その携帯電話でお別れを言えたのが、せめてもの救いでした。
ゲネプロ中(偶然母が荼毘に付されている時刻)
J.Pメナジェは涙を浮かべながら「ロレット軒」を
アコルディナ(手で持って、口で吹きつつ演奏するボタン式の楽器)で吹きました。
拭き終わるとそのまま舞台ソデで私の両手をしっかりと握って、
しばらくの間一緒に涙を流したまま時が過ぎました。
コンサート中はお客様の為に、打ち上げ会場では共演した歌手たちの為、
極めて楽しく笑いながら過ごさなくてはいけない。
とても苦しい時間が、これから毎日続くことに耐えられるか自信がありません。
もし、あと一日早ければ死に顔すら見れなかったと思うと、複雑な気持ちです。
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訃報
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