人生を全力で駆け抜けた人は70才台で亡くなる事が続いている。
そんなブログを書いた後、アストルも71才で没と思い出した。
そう言えば、彼は200キロで走り去ったとの記述をナクリオ「ゴリン」氏の著作に見つけた。
私達のアルゼンチン公演を大きく報じたブエノスの日刊紙「ラ・ラゾン」にも寄稿した人。
改めて読むと私の知らない事が満載。
アストルが母胎内での罹患から小児マヒであった事。
左利きでしかも右足が長かった事が理由で、例の独特の立位奏法が生まれた事。
名曲「アディオス・ノニーノ」は20種類もあり、ダンテ・アミカレリの超絶カデンツァのジャズ・フィーリングに始まり、パブロ・シーグレルのロック・フィーリング風で終わった事。
私が知っているのはクロス・オーバー・サウンド先駆者で、彼が最も気に入っていた「五重奏団」に始まり、六・七・八・九そしてオーケストラ共演まで常にBESTを求め、努力を重ねた天才と言う事。
ピアソラ・サウンドと言われる3×3×2のビートがユダヤ音楽起源である事。
そしてアストル自身が一番気に入っているLPは「レヒーナ劇場」でのライブ録音版。
アストルがミルバと来名した折、mss小劇場での歓迎会に於いて通訳のマルタ先生を介して会話。彼女が州知事の娘で、アストル同様疾病後遺症がある事もあってか話がとってもはずんでいました。
アルゼンチンで「彼のタンゴはタンゴではない」と異端視されていた時、日本で私が参加する「タンゴ・デ・ラ・エスペランサ」がアストル・ピアソラをリスペクトして演奏した事が気に入り、我々のLPにメッセージを寄せてくれた事は大変光栄!
彼が私達を「友人」として扱ってくれた証です。
話を元に戻します。
アストルは、「カルロス・ガルデル」とも仕事をし、役者として映画出演歴も有。
フランスにも多くの知己が居て「ジャンヌ・モロー」「ジョルジュ・ムスタキ」「アラン・ドロン」「ジャン・ギドニ」とも仕事をしていたとの事。
イタリアのスタジオ・ミュージシャンと共演した「リベルタンゴ」は気に入ってなかった事。
そして記者インタビューに答えて「昨日と今日、そして明日の演奏は同じではない・・・」。
更に、ジャーナリストへの皮肉もあり(シャルル・アズナヴールの「ラ・クリティーク」同様)その演奏は苦悩に満ちた「ボレロ」に似て「光と影」が交錯していたと知る。