幼い私を背に名城大学の夜学部に通った母の事を知らない学校関係者はいなかったそうです。
まだ乳飲み子だった私を連れて教壇に立つ事は出来ないと言う母に校長は「修滋君は私が校長室で面倒を見る」と三拝九拝。
そんな訳で母は出勤。
その教育法は少々変わっていたようです。
宿題をやって来なかった子には掃除をさせない(普通はその逆)
テストで早く答案を出した子(特に女児)は、ご褒美に私の世話をさせる。
その頃の生徒が後にエルムに来店するなり「私は、修ちゃんのオムツを変えた事があるの」と、大きな声で言われ恥かしくて赤面した事を覚えています。
私には「お父さんと呼びなさい」と言う先生が3人いらして、幼い頃母に「本当のお父さんはどの人?」と聞いた事もありました。
母は同僚の先生に恵まれていた様です。
中学1年の時、同級生に頭を叩かれ頭部外傷となった時、医者に「命の保証は出来ない」と言われ、一家心中も考えたそうです。
レントゲンにも頭の骨にヒビが写っていて、外傷後遺症は大学卒業まで続き自転車に乗る事も運転免許証を取る事も禁止。
面倒ばかりかける子でした。
役所勤務時代は、自民党の市会議員で後に警察のごやっかいとなった某氏とバトルの末、最終的には役所を辞めました。
皮肉な事にこれが私のその後、数々の栄誉となりました。
特に、アルゼンチンのアストル・ピアソラ、フランスのシャルル・アズナヴールとの友情物語につながったのです。
母も私がフランス芸術文化勲章を授与されたりした光栄な出来事の数々を喜んで天に召されたと思います。
感謝の思いで、合掌。